映画評(imagiNATIVE)

imagiNATIVE 映画&メディアアート・フェスティバル 2012
アレクセイ・バクルシェフ監督 「ツンドラブック」 映画評 評者:パオロ・カガオアン

アレクセイ・バクルシェフ監督の「ツンドラブック」は、作品を何章かに分けて構成していく手法を選択している点で『ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー監督、ニコール・キッドマン主演映画—訳注)を思わせるが、本作には若いよそ者が陥る邪悪な出来事の展開は一切ない。そうしたプロットに代えて映し出されるのは、鹿ソリに乗ってロシア領北極圏へ入っていくチュクチの家族たちだ。それぞれの章ではチュクチの生活の中で起こる一つ、二つの出来事が語られるが、バクルシェフ監督は何故こういう構成にしたのか、私は今も完全には理解していない。しかし、各章のタイトルの言葉は、観客が持ちがちな、シャーマンを崇拝する環境保護論者で歴史にとりつかれた先住民というステレオタイプな期待を解体していく。「精霊」とは、チュクチの長・ブクブカイが身に着けている毛皮の端切れである。「儀式」とは単純な行為で、そうした行為を促している霊的信仰は内在化され、明確に語られることはない。「自然」とは永遠の生命体ではなく、チュクチがそこで生き延びている日々不変の場所のことである。先住民たちの行為の目的を誇張するような、過度にアンビエント・インストゥルメンタルなサウンドトラックはない。

こうしたストレートなアプローチはまた、バクルシェフ監督の視覚にも表れている。自然が美しく、そして彼の被写体もまた美しいことを監督は理解しており、それらの要素が自ら語るがままにさせている。北極圏の雪は時に鮮やかさはないが輝くようにきらめいている。監督は気候条件の過酷な撮影セットで使われることの多いロングショットをほとんど使わず、代わりに被写体と被写体が暮らす移動用のテントにフォーカスしている。ブクブカイはカメラが彼を見ていることを十分意識しながら、チュクチ語とロシア語の両方で孫たちに教えたり、妻や息子たちに向かって表情を変えずに冗談を言い放ったりする。子どもたちは顔を紅潮させ、年長の者たちから学ぼうとし、雪の中で遊ぶ。一族が夏の放牧地へ移動した後もこの親密感や素朴感は、色の焼けた牧草や近くの水辺で釣りをする子どもたちに投影される。あえて唯一ロングショットを使ったのは、荘厳なトナカイの群れを見せたいと思ったときだろう。監督はトナカイの群れに比して人間を小さく見せている。チュクチの民は食糧として、また生活の糧として必要なトナカイを頑強な体をもって抑え込むが、両者の数から分かるのは、チュクチたちが十分に自立再生的であることだ。

『ドッグヴィル』との比較がおかしいことは認めよう。だが、二つの映画は共に何であるにせよ、外部から迫りくる目に見えない何かに直面する小さなコミュニティに関するものだ。多くのシーンは遊ぶ子どもたちを眺めるために割かれているが、映画の後半の章ではヘリコプターが到着し、チュクチの子どもたちを義務教育の寄宿学校へと連れ去る。この「寄宿学校」という言葉はここカナダでは、先住民の子どもたちを教師らが虐待した国家的トラウマの記憶をよみがえらせる。ブクブカイとバクルシェフ監督の懸念は漠としたものだが真剣だ。ブクブカイがバクルシェフ監督に向かって、人の子どもを連れ去るというのはどうあってもおかしな考えだと言うとき、私たちは思わず前者に共感する。そのことについてブクブカイは説教めくこともなく、「馬鹿げた法律だ!」と嘆いて独白を終える。何らかの生活様式についての映画はいつもその生活様式が脅かされている点を描くが、ここでもバクルシェフ監督は、被写体が直感的に振る舞う様子を記録することを意識しており、先住民文化は単なる過去の一部ではなく、今日も変わらず強固なのだということを思わせる。